『I'm so great』を笑うバカ

街ゆく老人の顔を眺め、カフェで騒ぐギャルを眺め、幸せを眺める。顔をじろじろ見るのは無粋で気が引けるが、生活の味が滲み出ている顔は見ていておもしろい。そのシワの、つけまつげの何気ない立ち振舞い一つ一つから、その人の幸せについて思いを寄せる遊びが好きだ。

「幸福とはなにか」

気の遠くなる程の年月と人が積み重ねてきた疑問の山。22歳の若造の考えなんて、ロングテールの端っこの吹いたら飛んでいってしまいそうな矮小。ただ、思いを飛ばさずにはいられない。人類普遍の共通の定義を作ろうなんて-それこそ幸せってもんを全然わかっちゃいない-ことを言う気は更々ない。ただ純粋に、自分にとっての、幸せを掴んでおきたい。そういうお話。

快楽主義者は、幸福とは一瞬の快楽だ、と答える。アリストテレスは、幸福とは素質の発露だ、と答える。ストアは、幸福とは外界の刺激から自己の独立を守ることだ、と答える。そしてぼくは、幸福とは『I'm so great』だ、と答える。

無地のTシャツ。ここ1,2年、彼らの勢いがすごい。思うに衣服ってのは、内面を映す鏡であるべきだ。過度に着飾ってもダメ、テキトー過ぎてもダメ。ちょうどいい具合に、内面の美しい部分が香るくらいの。そのフラジャイルな塩梅を表現できる人が「なんかいいよね、あの人」って言われる人。そういう人は「あの人おしゃれだよね」とは絶対言われない。普通に見たら、何の変哲もない無地のTシャツとジーンズとスニーカーだから。衣服と自分の関係、自分と外部の関係、衣服と外部の関係。そういうことを考え出してから、無地のTシャツを着ることが多くなった。と、同時に心と身体を鍛える方に時間がシフトしていった。

これも全て『I'm so great』に繋がっている。

衣服を通じて外部に-大部分は自分に-表現したい自分がある。それを一番、邪魔しないカタチで滑らかに手助けしてくれるツールとしての無地のTシャツ。無駄な装飾を脱ぎ去っても「なんかいいよね、あの人」って思われるのが、外見についての『I'm so great』。自分だけの。

そうそう。こういう自分にとっての意味を見つけることが『I'm so great』の基本。例えば、食事は、心と身体を笑わせるもの。運動は、真っ白な時間を作るもの。恋人と寝袋に入って夜空を眺める寒さは、心をあったかくするもの。こう考えると、食事はこういうのがいいかな?、運動はこういうタイミングでするといいかな?と自然と決まっていく。

こうして、自分の中で幸せの軸(マルクス・アウレリウスにちなんで指導理性と自分は呼んでいる)をいっぱい持ってると、誰にも邪魔されない、自分だけの幸せを掴むことができる。たぶん、そういう人は男女問わず、美しい。人生に誇りを持っている。たとえ、無人島に行っても”私の『I'm so great』はね”って笑いあえる人。そういう人に、自分は恋焦がれる。

『I'm so great』を笑うバカは放っておけば、いい。

人生は自分のものだ。

喜びは自分のものだ。

分かち合える人と、生きるべきだ。

肌荒れがちょっと治ってきた日曜日より。