今とても夏が恋しい

冬の私は、抜き差しならない繊細さを持って、日々を過ごしている。
真冬の雑踏は気位が高く我儘で正しさだけ求めてくるような冷たさを感じるから、身に付ける装飾の分だけ、気も重くなってしまう。煙突とネオンの輝き、箱根の山越えとデパ地下のチョコレート合戦、みたいに。欲望の渦が空気を掻き乱して、人も街も何気ない電灯でさえも、なんだかいつもとは違う仮面をつけている。それも自分では全く気がついていない内に。着飾って、浮足立って、仮面の役割を演じている。しかも、それが正しいと思い込んでいる。本当に生き辛い、冬という温度は。

仮面と生身の自分との僅かな空気の層に歪む生身の表情。私が好きなのは、そういう人間くささであって、機械には表現できない偏りなのかもしれない。波打ち際で迫り来る波から逃げるように、食い込んでくる地面を蹴って必死に走ってる、そういうスカッとした心が、顔が、好きだ。夏は、いい。そういう心が、顔が、四方八方に飛び散って、偏って、皆が裸になっている。だって食べたかったんだもん、とお菓子を食べて怒られる少女の、強張った仮面に隠れた無邪気さすらも、夏は身近に感じることができる。

いま当たり前にある、である、「存在」を改めて問う必要があると感じる。長い冬が終わり、夏の到来があった。でも、晴れない世界と、解像度の上がらない視界。笑うことも、泣くことも、なくなってしまい、それが大人になるってことと言えば、それまでだけど。無表情で仮面を被って生きているような、そういう冬を生きる自分は、もう死んで欲しい。できるならば、誰かに殺して欲しい、とも思ってしまう。叶わないならば、せめて逃げるモノが欲しい。一生懸命、後ろを振り返らず、水中を走るような歩みでもいい。溺れるような感覚が、水と空気の微妙の間を行ったり来たりして、思いっきり空気を吸い込んだ時の、生きている感覚。自分が「存在」している在処。

変える必要があるのは、自分の願いだ、ということは分かってはいるけれど、今とても夏が恋しい。