「山」と「思い」と「リアリティ」

山を歩くのってほんとに素敵。木に囲まれた細い砂利道をノシノシ歩くってだけなのだけど。一歩一歩の足の置き場も、重心の置き場も、自分の心の置き場だって、一瞬一瞬をすごく大事に生きないと、山はグロテスクなほどのむきだしで迫ってくるから、なんだか申し訳ない気持ちになる。木の間から指す晴れ間、雫となって落ちてくる水滴、鳥の気配、水の音、挙げていったらきりがないけど、ほんとに全てのものが生身の気迫となって締め付けてくる感覚。非日常の空間の中で、本来人間が日常的に体験していたような「そうそう、これが生きてるってこと」とでも言うような、何か本質的な場所に戻ってきた感覚さえ抱くことがある。そういう人間にとっての根源的な「リアリティ」の中にいると、何時だろう、とポケットの中のスマートフォンを見た時、ん?この箱はなんだ?と、一瞬だが接し方がわからなくなった。目覚ましの音で覚醒するように、この箱の中におれのリアリティはあるのか?と、ハッとした。ここでのスマートフォンってのは一つの日常生活の象徴ではあるけれど、帰った来た日常はノイズだらけで、どこにフォーカスすれば良いかもわからず、自分の心への解像度も低くなるような場所。でも、ここで生きていかねばならない。曇ったレンズを引き受けて、このスマートフォン的世界の中で、微かな「リアリティ」の火を探していくしかない。

人生は、自分の「思い」をどこまで「リアリティ」を持って受け止める器があるのか?という絶えざる葛藤だと思う。「リアリティ」を受け止める器が自分にないと、どれだけ大きな「思い」を抱いても、それはただの戯言であって、夢という香ばしいものでもなければ、就活の軸という不確かな幻想でもない。「世界を変えたいんです!」と血相変えて相談されても、その言葉を受け止める「リアリティ」はおれにはないし、もちろん言ってる本人にも。健全な批判的精神を持っているなら、自分の「思い」と今触れる「リアリティ」との乖離に頭を悩ませ、のたうち回るだろうし、分をわきまえ一歩先の「思い」を圧倒的な「リアリティ」にするためだけに、四肢を動かすと思う。虚像として大きくなってしまった自分の「思い」に、それに見て見ぬふりをかましていた自分に、自戒しか込めずに、そうあるべきだと心底思う。

また、組織運営の個人的な一番大きな失敗に「思い」を「リアリティ」にまで高められなかったことがある。集団の雰囲気を「思い」を言葉にして、なんとなく作った気になってた。一回説明して、燃えてくれると誤解してた。それっぽく小奇麗な装飾を作って意気揚々としていた。自分の役割は、方法はどうあれ集団の「思い」の「リアリティ」を徹底的に磨き上げ、それこそ宗教みたいに繰り返し繰り返し繰り返し、伝え続けること。そのために自分が一番「リアリティ」を持って思いが自己目的化するくらい、思い込ませること。どうせなら、誰かの「リアリティ」を作るために生きるのではなく、自分の「リアリティ」を誰かと作りたい。組織論でよく言うビジョンとか行動指針とかそういうの、やっと「リアリティ」を持ってその概念の端っこの方を掴めたような気がする。

もう一個、先輩の教え。「人は、まっすぐに上に、蛇行しながら上に、ただ何かにぶらさがって上に進む、この3パターンしかない。そして今やっていることがこの3つのどれにあたるのか見極めながら生きる必要がある。」

まだ自分の「リアリティ」はわからない。どの「思い」を「リアリティ」に育てていけばいいのかも、わかってない。蛇行してることは間違いないけど、それで上に行けているのかもわからない。そうなれば、実現してあげたい「思い」と、力戦奮闘する「リアリティ」と、受け留め改善する「豊かさ」と。この3つを武器に、ただただ生きる、それだけのこと。それしきのことしか見えない若輩者だということ。何も、見えてないと実感するだけの2015年、冬。ふんばろう。